「軽薄派の発想」(吉行淳之介)

戦中少数派の発言

昭和16年12月8日、私は中学5年生であった。その日の休憩時間に事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。生徒たちは一斉に歓声をあげて、教室から飛び出していった。三階の教室の窓から見下ろしていると、スピーカーの前はみるみる黒山の人だかりとなった。私はその後継を暗然としてながめていた。あたりを見回すと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、私はどうしても忘れることはできない。

戦後十年経っても、そのときの気持は私の心の底に堅いシンを残して、消えないのである。中学生の私を暗然とさせ、多くの中学生に歓声をあげさせたものは、思想と名付け得るにたるものとはおもわれない。それは、生理(遺伝と環境によって決定されているその時の心の肌の具合といったものともいえよう)と、私はおもう。」(p. 135)

「その当時、私が書物を濫読したのは、自分と同じ生理に属する人間を、東西の作家の中に見出そうとしていたためと言ってもよいくらいである。」(p. 136)

 

戦争を背負った主人公たち

「『戦中派』という言葉のもつ意味をあらためて説明すれば、十代の後半から二十代の初期、つまり自己形成に最も重要な時期を戦争中に送った世代、ということになる。」(p. 141)

「文中、作者は『われわれはこの地方には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との『種族』である』といっているが、僕なども戦争中ひそかに人間を『アダムの子孫と猿の子孫』との二つに分類して、縦のツナガリに重点を置いていたものである。」(p. 146)