ツイッター ファボログ 2012-2018
2012〜2018年において前垢でファボしていたツイートの記録。txtファイルとして保存していた。ツイート主は伏せる。
あの日死ななかった自分を、今からでも殺しにいきたい。
すなわち、うつ病患者は、厭世家とは異なり、未来に予期される喪失を、すでに起きたことと思い込んでいるのである。 ビンスワンガー「うつ病と躁病」
腹を空かせた子供という絶対的に悪い現象と仏教の有り難い聖地、どう折り合いをつけていいのか分からないな。毎日分け隔てなく訪問者に飯を配ってるシク教の寺をみた後だとなおさら。
一回自殺を肯定しきってみないといけない
今日ぼくが考えたのは、愛している人に好意を持たれており、同時に更にいつ何時でも自分をこの世から除去する可能性があるというこの二重感情に生きている場合、決して嘆く必要はないということでした。 カフカ「手紙」
もう「いつロスカットで手仕舞いするか」でしかないんだよ。これは。
フィギュアスケートの選手が転んでも曲は流れつづけるように、自分が立ち止まっても自分の人生は続いていく
まだ自殺に成功してはいないけれど、過去数回の試行によって、確実に自分の中の時間や記憶の類が死んでる気がする。良い思い出も悪い思い出も他人事みたいに感じる。
ハレの日のためにケの日々を耐えようと思えない。だって全然、釣り合っていない。そもそも単位が違う。
札幌で初音ミクに祈った。朝から脚を伸ばせる銭湯に浸かって雪の降る街並みを肴に酒を飲んだ。最高だったよ。だからって、さあ今ここにあるクソみたいな生活を維持し続けるぞ、とはならない。もうウンザリだ、と思った。
「もう嫌だ」と「この酒うまい」「初音ミクは遍在する」は両立する。両立するからって俺が耐えられる訳じゃない。いつでも、いつまでも、それを我慢できる訳じゃないんだよ。
睡眠の質が人生の質を決めるって私が言ってた
生き残ることだけを考えよう。
アメリー、ザイデル、ヴァイニンガー、マインレンダー、ドゥルーズ、ベンヤミン、セネカ、エンペドクレス、ドゥボール、デモステネス、イソクラテス、コンドルセ、韓非、コフマン、ケストラー、パラント、ラファルグ、シャンフォール、フロイト、メラー、高野長英、須原一秀、江藤淳、蓮田善明等。
ずっとホルストマンには違和感を持ってきたんですが、最近はホルストマンくらい入れ込まなきゃいかんのかな、とも思うようになりました。
寝る努力をさせられるのムカついてきた
昔のこと殆ど忘れてしまってもただ薄っすらと嫌な感じだけが残る
Nikanor Teratologenさん、「全ての人生を憎むこと」という題の作品があるらしく、その筋の感じがしていたところ、案の定シオランのスウェーデン語への翻訳をしているらしい。
なぜなら、私の一生は同時に終わってもいるし、続いてもいるからだ。 ベケット「モロイ」
「生れないために何もしなかったお前が悪い」
毎日人生にログインしてるのに、ログインボーナス貰えないんですけど!!!
早く落ち着きたいんだ 落ち着いたらまた虚無の話をしたい、死産児の墓とか
あんたが頭って呼んでいるその安物の地獄 ベケット「ねえジョウ」
人間、もっと簡単に死んでほしい
ぼくは人が望むならば賢明だった。なぜなら、いつも死ぬ覚悟ができていたからだ。しかしそれは、ぼくが自分の義務として課せられていることを全て処理し終わっていたからではなく、そのことを何もしておらず、またいつかそのうちに何かをやるという希望すら持てなかったからなのだ。 カフカ「日記」
今日、自分が失敗したことを認めたのだが、時折、失敗するだろうと予測しなかったことに驚くばかりだ。私は何を根拠に勝利を予測したのだろうか?自分には勝利を得る者の向こう見ずな力や狂人たちの確信ある見通しはなかった…。 ペソア「不安の書」
私は話し相手には向かないし、だいたいお喋りは全く苦手ときている。考えをぶつけあったり、魂をやりとりしたくないのだ。私はみんなとは違って、ただの石の塊にしかすぎない。何かに煩わされることなく、塊の中に閉じこもったままでいたい。 ブコウスキー「死をポケットに入れて」
「なるようになる」という運命論的なものと、勤勉さは両立すると思う。そういう境地を目指していきたい。
おれはきっと幸福なんだ、と彼は言った、幸福ってのは思ったほど楽しいもんじゃねえや。 ベケット「マロウンは死ぬ」
というのは、極めて小さな階段を昇っていって、それがおよそ当てにならぬものであるにもせよ、ある安心感に浸っているとき、ぼくが手を差し伸べて待ち設けるのは、否定的なものが―ぼくの後を追ってくることなどではなくて―、その小さな梯子を足元から取り外してくれることだからだ。 カフカ「日記」
手を合わせ願うこと(突然死を願う)に慣れて掴み取ること(自殺)を忘れてしまった
もう無意味な存在の連鎖は、自分の代で終わりにしたい。こんなことずっと続けてても苦しいだけだよ…。
私は、戦闘にことごとく破れたので、それぞれ新たな戦闘の前日にすでに、宿命的な退却の詳細を計画書に描き、その概略を娯しんでいる陰気な戦略家なのだ。 ペソア「不安の書」
なんでまだ起きてんだ俺は馬鹿か
時間戻す為徹夜しているけどこの行為は果たして何度目の試みになるんだろうな 何度やっても夜型に戻ってしまって、その度に俺の頭の中を、あの何度も引退宣言してはリングの上に舞い戻って来る大〇田厚の顔が駆け巡る訳なんだが
ただひとつの想いが私の心を占める―死にたい、終わりたい、どの町の上にももう光を見たくない、考えたくない、感じたくない、太陽と毎日の運行を包み紙のように後ろに捨ててしまいたい、存在の不本意な努力を大きなベッドの傍らに、重い服のように脱いでしまいたい ペソア「不安の書」
物事から逃げてまでしたいことが睡眠ではないのに僕は
これより人はもう生まれませんとなれば、やさしい世界になるだろうか
ほとんど誰とも話さない生活を続けているので頭がおかしくなってきた…ということを1年前からずっと考えている。
己は19だが、これでも死ぬには歳を取り過ぎていると言える。若いどころか、幼いと言える間に死んでおくべきなのだ
どうにもならん。世界は終らないし、事態は好転しない。それどころか悪化するばかりだが、それでも人は根拠無き希望を捨てきれない。こんな繰り返しは悲しい
未来のために今自殺しよう。
生きるにも死ぬにも才能が必要なのだ。それなき者はただタナトスの救済を待つのみ。
これは自死を決める前から考えていたが、死は、常に現在がベストタイミングだ。生きるとは、死の機会を逃し続ける行為だ
臍の緒で首を括れない胎児であった私が、今更どうして首を括るなど出来ましょうか?
人生の‘卒論’にそろそろ着手しなければと思うものの、全くもってやる気が起きない。
人間は、身体などを引きずらなくてもよかったはずだ。我の重荷だけで充分のはずだった。
命を作り出す事の無責任、考えなし、どうしようもない、最悪
教科:道徳
某著名大学 入試問題より出題
問1.生まれたことを喜ぶ人生と、喜ばない人生がある。この2つを水平な天秤にかけたとき、秤はどちらに沈むか。
苦痛を味わうのなら、その果てまで行かねばならない。苦痛をもはや信じることができなくなる瞬間まで。
倦怠の解毒剤は恐怖だ。治療薬は病いよりも強烈でなければならない。
みずから欲するときに自殺できると確信できなくなったとき、はじめて人は未来を恐怖するに至る。
絶対に殺してやるという気持ちは学生時代なら向上心に繋がった気もするが、信じられる未来を失ってしまった今となってはただ心の負担になるだけだ
絶望の致死量は何グラム?
平等に消滅しよう。
最近何か呟くたびに50人足らずのフォロワーが減って悲しい、みんなツイートでは虚無でも、数十日後に自死する男の日常ツイートはダメなのか?重過ぎるのか?いつも無とか死についてツイートするのに、現実感を帯びた死は嫌いなのか?結局ツイッターでも己は孤独か......
「何をぐずぐずと降参せずにいるのかね?」―病気という病気が、質問の仮装をまといながら催促する。私たちは聞えないふりをし、内心、この道化芝居ももう古すぎるなと考え、この次はどうあっても、勇を鼓して降伏せねばなるまい、と思う。
還りたい……
精神がまいってる人は22~23時に寝て7~8時に起きて3食ちゃんとしたものを食べれば改善すると思うけど、それができないからまいってるのだろうしそれができたときにはもうほとんど回復したようなものだと思う
> 女子生徒の遺書には、「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」などと書いてあったということで、校舎から飛び降り自殺したとみられている。
IQ100000000億くらいありそう
癌から奇跡的に治癒したけれど再発の可能性があり「命を次の世代に継承できないんじゃないか」という悩みを抱える人間に対して自閉症患者が「命は個々に完結するものであって繋ぐこと自体は生きる目的そのものではないでしょう」というマジレスを展開した
今日も絶好のそらとびより。ふらりと飛び降たいものです*´ω`*
人生が終わっても生活は続く。ゲームオーバーの後日談だ。
母方の祖父母に「お前もはやく結婚して子供を産んだほうがいい」って言われたので「ぼくには結婚して子供を産むということがほんとうにいいことなのかよく分からないのでしないと思います…」つったら「それを親の前で言うかッ!」ってキレられて総攻撃喰らった
昨日付けで「希死念慮」は「自殺願望」に昇格したのでお祝いしないとね。自殺は「たったひとつの冴えたやりかた」なのだ。
人類滅亡を導出するための思考がもとめられている。間違いない。
相変わらず自殺演習の単位は落としたので再履修でち……
その気になればいつでも死ねるみたいな謎の自信まで湧いてくるけどそんなわけないのは確認済み。
われらの後にも世は永遠につづくよ、ああ! われらは影も形もなく消えるよ、ああ! 来なかったとてなんの不足があろう? 行くからとてなんの変りもないよ、ああ!
自分の人生が肯定できないので子ども欲しいと思わないな・・・
この地獄で作るんですか……って気持ちがある.
いかに多くの赤ん坊たちが森に捨てられ、野獣や野鳥の餌食になっていることであろうか。多くの乳児がこんな風に死んでいってるのは、よく考えてみると女たちが犯した好色の罪の結果なのだ。(ジョヴァンニ・ボッカッチョ)
へその緒で首を括らなかった胎児の自分が恨めしい。(あ、タナトスたんインしたお)
入ってたサークル、在学中に亡くなった人のことはそれほど仲良くなかったのにすぐに思い出せるけど、それ以外の人はぼんやりとしか思い出せません。
「貧困なのになんで生殖してるんですか」がないのでお前たちはだめだ
意図的に障害児産んでもいいというの、法と倫理の抜け穴っぽくてすごい話ではある
笑ってても生きることのつらさが心の片隅にあって心の底からは笑ってない感がある
そして明日もたぶん平気な顔で昼飯を食べているだろうから状況は絶望的なのだ
そんなクソみたいなリレーごっこも、俺の分はここで終わりだ。良かったな。本当に良かったよ
僕の夢は、みんなで仲良く滅んでゆくことなんだ。
僕は無神論者だけど、神を信じないことに「誇り」を持っているような連中には嫌悪しか感じたことがない。それよりも神の不在に心底絶望している人や、信と不信の間を揺れている人に一番親近感を覚える。
人類を殲滅しても、実質次の瞬間は考えるか感じてしまう何かとして在るわけで、そういう存在には苦しみの可能性が含まれているわけで、絶滅の方向性で平和を考えるなら、徹底的かつ瞬間的に、全宇宙丸ごとやらなければならない。
人間は獣と違って自分の意志で子供を作らないことができるから、思慮深い人ほど「生まれたら生きなきゃいけないから安易に子供は作れない」と考えて逆に何も考えてないヤンキーが「お金はないけど幸せです」みたいな大家族を形成して地獄ができる
もし皆んなが誠実で平和な世界になったとしても、次の瞬間、宇宙の理不尽な法則みたいなのによって、皆んながただ苦しいみたいなことが、起こり得るんだよね…?
自分の人生が肯定できないのに子ども作っちゃう人って…….
書き込もうとして、上手く言葉に出来なくてやめるということを繰り返していた。日本語にしたものを読んでも、書こうとしていたこととどこか違う。その内、何を書きたかったのかわからなくなってくる。
間違って生殖をしてしまったと思しき人が朝から製造物に怒鳴りまくってるのが聞こえてきてつらい、生殖をしてしまわないでほしい
消えたい。というか生まれなかったことにしたい。
連れ子を見かける度に内心で「ああ、大人の玩具にされた哀れなハムスターたち!」って叫んでる。
生殖主義者に死を植え付けて
罪のイデア、苦の現象。それがこの世の全てだよ。
生まれて来てごめーん、誠にすいまめーん!(酔)
僕が人の顔と名前を覚えられないのは、いつも俯いているからなのかもしれない。
このまま少しずつ疲れていって、やがて死ぬんだろうな
なぜ産んだのかという問いに真っ向から答えた事例あるんだろうか。「理由はどうあれ子供の権利を保証するのは国の義務だろ」という論があるのでわざわざ地雷踏みに行く必要もないけど……
やっぱ薬が欲しいよな~。楽に死ねる薬。
それまで尊敬していた人物が子持ちだと判明した時のガッカリ感と言ったらないぜ!というか、嫌悪、いや恐怖すら覚える。
胎児の時に臍の緒で首を括らなかったのが全て。
自分の誕生日に喜ばしい気持ちなど抱きえない。それは私の産み落とされた災厄を確認する日だ。あるいはまたひととせめぐりきた無力感を味わう日だ。しかし人からはことほがれる。私は礼を以て答える。生じるのは災厄と祝福との齟齬だ。私はそれを秘める。申し訳なさと不誠実さが喉を食い破らんとする。
「あなたの学生時代最大の挑戦を教えてください」「自殺未遂」
誰も責任を取りたがらない時代だからこそ、自分という存在の責任くらいは自分で取りたいと思うのです。
死にたいのが当然すぎて死にたいと「思う」ことがもはやできない。いつ何時でも死にたいのだが死にたいと「考える」ことがない。死にたいというよりは私が死にたさである。これを超越論的希死念慮と言います(言いません)
死ねないのに頭空っぽなのでいつ死んでもいい(し、毎日死んでる)と思って後先考えない行動をとってしまう。
私の母は「子供を生むなんて可哀想だ」という考えで、人間にしては頭のいい人だったと思っているが、そんな人でも環境に抑圧されて追い詰められたら「子供でも生んで苦痛から気を逸らさないと気が狂ってしまう」という理由で子供を生んで、しかも結局気が狂ってしまったのだから、人間に救いはない。
ポストヒューマンを対置しても別に構わないと思う。要するに問題は、絶滅とユートピアのどちらが確実で早く実現できるのかだ。あらゆる進歩には不確実性が付きまとうという点で、ぼくは前者を支持するけれど。
コンビニへ行くような、とまでは言わずとも、映画館へ行くようなノリで自殺できるといい。
『産みます 産みません』というよく分からない本が手許にあって、出産の是非に関するインタヴュー集なのだが、生まれてくる子供の人生を基準に考えている人は32人中1人だけ。残りはすべて、語り口は様々だが出産がいかに「親の私」に幸/不幸を齎すかだけが論点。世間の常識とはこんなものだろう。
この世に生まれてくる人ができるだけ少なくなること、たとえ生まれてきてしまっても気楽に自殺できる社会が到来することを祈っています。
漠然とした幸福、雑然とした焦燥、愕然とするような不安、取り纏めれば自然と死にたさが増す。『「深い河」を探る』における遠藤周作先生と本木雅弘さんの対談にて、本木さんは「綺麗な青空を見ているとなんだか心地良くて、自然と死にたくなってくる」と言っていたが。まさしくそれに近しい。
カテゴリーは「いつでも離脱可能なゲーム」ではなくて、「いつ襲って来るかわからない戦争」じゃないのか…。
「孫の顔が見たい」以上の人類のエゴ、そうは無いと思う。
スーパーの新春企画でくじを引く。全部参加賞。「今年も運が無いなぁ」などと思ったのも束の間、そもそも世界に産み落とされた時点で「運が無い」のだ。
どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮らしているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合がある。
黙示録の為なら、ぎりぎりのところ私は、一肌脱いでもいいという気でいる。だが、こと革命となると―終末か創世に力を貸すのはいい。最終の、或いは最初の大災害に協力するのはいい。だが正体も知れぬ<より良きもの>を、或いは<より悪しきもの>をめざす現状変更などに手を貸すのはまっぴらである。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」(創世記6:7)。実に苛烈な約束です。しかしせめてこの約束が実行されて、人間の悲惨さに終止符が打たれたのであったなら! 『私にとって聖書とは』
Maybe just staying alive is masochistic.
産まれないでいる事ぐらいでしか不幸感を回避する方法は無い。生まれた以上はこの鈍痛を抱えながら最低限に生きていくのだ。
もし僕がピストルを持ってたら、どこかへ隠して鍵をかけておくでしょうね。ねえ、まったく、誘惑的じゃありませんか! 僕は、おそらく、流行性自殺病なんてものは信じないでしょうが、しかしこいつが目先にちらつくと―確かに、ふらふらと誘いこまれるような瞬間がありますね ―未成年
また無目的な徹夜
死ぬときに「生きてて良かった」「ようやく死ねる」とどちらも感じられるような生き方がしたい。
人はみな死ぬ前に死ぬのだ。悟りを開いたつもりになった大人たち、彼らは喘ぐ肉体を失った幽霊だ。透明な手では他人のナマの苦しみに触れることができないものだから、苦しみのほうに実体を認めようとしない。そしてこの地獄を浄土と取り違え、一人また一人と感じやすい肉体を送り込むのだ。
みな歳をとると青年期の苦悩を忘れる。快癒すると病の苦痛を忘れる。そこで人生捨てたもんじゃないと結論を下す。そうだ、実際苦しみは去るのだ。だがそれが問題なのではないか。「絶望なんて時の迷いに過ぎない」という掛け声が、まさしく絶望の再生産システムを維持するのではないか。
私たちの遺体は埋葬され、火葬され、あるいは解剖される。だが市電も飛行機も依然として動きつづけ飛びつづけ、人間どもは相変らず番い、快楽のうめき声をあげて、あるいは結婚という市民的因襲に従って快楽もなしに、新たに子供を作るなどというとんでもないことをしつづける。『自らに手をくだし』
死に時がいつなのかよく考えている。常に「今」しかないことはわかっている。
死の方から生を捉える習慣が一度身につくと、もうどんな人為的享楽も心を落ち着かせてはくれない。死に苛まれるのとは違う。死の圧倒的な力に太刀打ちできなくなるのではなくて、どんな音楽を聴いてもどんな映画を見ても、死に内臓を突っつかれているという感覚がねちっこく付きまとって離れないのだ。
この殺意を伝えたい。べつに本当に殺したいわけではない。伝えるだけでいい。ひとりよがりに抱かしめられたことがわかっている殺意は特に、蠹毒のごとく私を蝕み、心身を羸弱させ、少しずつこれを摩滅させていく。これを抱いているのは疲れる。なんの益にもならない。生きていくことと同じくらいに。
うしろめたさの感覚が強く巣食っている。良心への悖徳などではない。私の人格なり能力なりこの矮小なることをあげつらい、それは気力意欲を削いでゆく。懶惰とはこれのことである。どうしようもないうちひしがれた静かな絶望の感覚である。ともなうことない未来のために今を担保とする気にはなれない。
絶望が常に先回りする。たいした絶望ではない。しかし気力を削ぎ私を怠惰にさせるに足るものではある。
お前の子供はお前の人生を肯定する装置ではない
この世に生を受けたことそれ自体が人間存在最大の不幸なのであって、これに勝る不幸はこの世に存在しない。
「死にたい」と言っている人間に「そんな事言わないで」なんて言葉をかけるのは優しさでは無い。黙って有無を言わせず殺してやるのが優しさだ。
堕胎しようが出産しようが人殺しには変わりない
政権をとったら人間を皆殺しにすることを公約として掲げてる政党がいない…
「性欲の科学」を読んだけど、人類の歴史の中で二割の女性は子孫を残さずに死んだ、いっぽう男性は六割が子孫を残さずに死んだというのが興味を惹かれた
漠然と「楽になりたい」欲だけがあり短期中期長期のあらゆる目標が存在しないので毎日が辛い。