自殺した私の副交感神経

訃報。副交感神経が自殺した。

先週は徹夜して三菱商事の最終面接に臨んだ。落ちた。

大学時代はカウンセリングに4回ほど行った。カウンセラーに「就活は上手くいかないと思うよ」と言われたが、日系のコンサル企業とご縁があった。大学院も修了見込みだ。運が良かったのもあるが、努力が実ったという側面もある。

高校生の頃から、自殺したいと思っていた。高校を卒業できなければ自殺するつもりだったが、大学に受かってしまった。就職先が決まらなければ死ぬしかないと思っていたが、就職先が決まってしまった。

結局、どうにかなってしまった。嬉しさもあるが、早春スケッチブックというドラマにおける山崎努のセリフを思い出してしまう。

「病気は治せば良いのか?長生きはすればするほど良いのか?そうはいかねぇ。体が丈夫だって、長生きしたって、何にもならないやつはいくらでもいる!何かを、誰かを深く愛することもなく、何に対しても心からの関心も抱くことが出来ず。ただ飯を食い、予定をこなし、習慣ばかりで1日を埋め、くだらねぇ自分を軽蔑することもできず。俺が生きてて何が悪いと開き直り、魂は一ワットの光もねぇ!そんなやつが長生きして何になる。そんなやつが病気治して何になる!」

山崎努 早春スケッチブック

山崎努 早春スケッチブック

この精神性は、シオラン埴谷雄高も表明している。

「我が課題は自殺におわるのではあるまいかとは年少の頃の私の屡々自らに問うたところである」(埴谷雄高の「不合理ゆえに吾信ず」)

"What I know at sixty, I knew as well at twenty. Forty years of a long, a superfluous, labor of verification" (Emil Cioran, "The Trouble with Being Born")

Thomas Ligottiも聡明だ。

Have they ever mentioned that no one could get by,

that nothing alive could remain so for long without the fear of hurt and dread of harm,

without feeling the frustration or the anguish

or the full hell of unmitigated torment that is woven into everything that lives

and comprises the very threads holding it all together and true —

have they ever mentioned this to you?

Fernando Pessoaの詩も好き!

No, I don’t want anything.

I already said I don’t want anything.

Don’t come to me with conclusions!

Death is the only conclusion ... 

(Fernando Pessoa, "Lisbon Revisited)

ここで当然の疑問が生じるわけ。「何で自殺しないの?」と。シオランは素直に「分からない」と言っている。

If I were to be totally sincere, I would say that I do not know why I live and why I do not stop living. The answer probably lies in the irrational character of life which maintains itself without reason.”

(Emil Cioran, "On the Heights of Despair")

大学を卒業して、一先ずの結論が出た。生きることも死ぬことも一種の才能だ。どちらも出来ない人間は、「人生が終わっても生活が続く」からこそ、就職して「ハーム・リダクション」に努めるのが賢明だと思う。